
長谷川絢女
自分で決める。だから、技術を囲い込まない。
人と組織の自走を支えるWebエンジニア。
スキルセット・支援事例
あなたは今、自分で選んだ道を歩いているだろうか。進学する学校。働く場所。住む街。誰と仕事をするのか。そして、どのような毎日を送りたいのか。
「最終的に誰かのせいにしないために、自分で決めることを大事にしています」
そう話す長谷川絢女さんは、Webエンジニア/Webディレクターとして、開発やプロジェクト支援に携わっている。依頼されたものを開発し、納品するだけが仕事ではない。クライアントに知識を残し、怖くて触れなかったコードを、「自分でも少し変えられるかもしれない」と思える状態にする。
自分の人生を、自分で選ぶ。だからこそ、相手から選ぶ力を奪わない。
幼稚園の七夕の短冊に「早く一人暮らししたい」と書いた少女は、周囲が示す正解ではなく、自分が納得できる道を選び続けてきた。その歩みを支えたのは、意思を否定せずに見守った両親と、少し先の世界を見せ、仕事を任せてくれた人たちだった。
これは、自分の軸を曲げずに進んできた一人の女性が、誰もが自分の力で進める環境をつくるまでの物語である。
こんな方の力になれます
外注に頼りきりで、自社サイトを自分たちで触れない方
コードを触るのが怖くて、小さな修正も止まっている方
社内の手作業を、仕組みで軽くしたい方
最終的に誰かのせいにしないために、自分で決める。
インタビュー本編
「自分で決めていい」と否定されなかった——小さな城に憧れた少女
長谷川さんは、幼い頃から一人暮らしに憧れていた。どこに住み、どの家具を置き、何を食べるのか。小さくても、自分で生活をつくれる場所を持ちたかった。
初めて一人暮らしをした後、父親との電話で、その思いが想像以上に古くからあったことを知る。
「幼稚園の七夕の短冊に、『早く一人暮らししたい』と書いていたらしいんです」
本人に記憶はない。それでも、物心がついた頃から、着る服は自分で選んでいた。3歳の七五三では、淡い色の着物には目もくれず、白地に大きな赤い花が描かれた一着を選んだ。
「一着だけ見て、『絶対これやろ』と思ったんです」
好きなキャラクターの顔が印刷された服にも、あまり惹かれなかった。
「シンデレラが好きなら、シンデレラが書いたTシャツを着るんじゃなくて、シンデレラのドレスを着ないと、と思っていました」
憧れの記号を身につけるのではなく、その存在に近づこうとする。大人になってからも長谷川さんは、なりたい人の肩書きではなく、その人が何を考え、どう行動しているのかを観察してきた。
学校では、花壇の花や考え事に夢中になり、チャイムに気づかず、先生が探しに来ることもあった。学校から連絡を受けた両親は、長谷川さんを強く叱らなかった。
「花が好きなのはいいことなので、家では何も言わないでおきます」
「普通にできる子」へ直そうとせず、長谷川さんが何に心を奪われているのかを認めた。一方で、長谷川さん自身も、その自由に甘え続けたわけではない。
小学3年生の時、忘れ物や時間に厳しい先生と出会い、「このままではまずい」と気づいた。忘れ物をするなら、前日にかばんへ入れる。時間を間違えるなら、予定の前にアラームを設定する。
「自分を信頼しない、という攻略法は、その頃から身につけ始めていたと思います」
長谷川さんにとって「自分で決める」とは、好き勝手に行動することではない。自分の特性も結果も引き受け、自分なりの進み方を考えることだった。
両親は、夫婦でうどん店を営んでいた。昼の忙しい時間には店の後ろで待ち、近くの本屋へ行ったり、弟と留守番をしたりした。小学校高学年からは、弟と年越しそばを販売することもあった。
働く両親への寂しさより、忙しい店を切り盛りする姿を見て、「すごいな」と感じる気持ちの方が強かった。
「自分で決めたいという欲が強いことには気づいていたので、雇われてずっといる自分を想像したことがなかったんです」
高校を選ぶ基準も、髪型や服装の自由度が高く、自転車で通えることだった。自由な校風の学校へ進むために、必要な勉強にも向き合った。誰かに言われたからではない。自分が選びたい環境があるから努力する。
高校卒業後も、その姿勢は変わらなかった。周囲の多くが大学へ進む中、私立大学へ進めば、多額の奨学金を背負う可能性があった。将来自分で事業を始めたい長谷川さんにとって、独立直後から返済を抱えることには抵抗があった。
高校時代に読んだ本にも、若いうちは可能性や意欲を見て年上の人が力を貸してくれるため、その時間を使って早く社会へ出た方がいいと書かれていた。大学で数年を過ごすより、早く社会へ出た方がいいのではないか。
両親とは意見がぶつかった。それでも、自分で調べ、通信教育課程で学ぶという折衷案を提示した。後になって、父親から当時の本音を聞いた。
「お前が言うことを聞くわけがないから、出ていかれて音信不通になるくらいだったら、私たちが折れた方がいいと思った」
両親は、すべてに賛成していたわけではない。それでも、娘の軸を力ずくで曲げなかった。長谷川さんが「自分で決めたい」という思いを失わずに進めたのは、何度も選択を任せ、その意思を否定しなかった両親の存在があったからでもある。
早く社会へ出ると決めた——花屋、バー、プログラミングを経て独立するまで
通信教育課程で学びながら、長谷川さんは、服に関わる仕事と花屋のどちらで働くかを迷った。服も花も好きだったが、最終的には花屋を選んだ。
「花屋の方が、ブーケをつくるとか、技術が身につくかなと思ったんです」
ただ好きな場所で働くのではなく、そこで何ができるようになるのかを考えていた。入ったのは、関西でも売上規模の大きな花屋だった。繁忙期には、売り場全体を見ながら、商品の追加を周囲へ指示する役割まで任された。
一方で、朝は早く、大きな花瓶の水を何十個も替える。花屋は、想像以上に体力を使う仕事でもあった。
「花屋を貫きたい気持ちもありました。でも、私には実現したいライフスタイルがあって、自分のベースにある生活や幸せを大事にしたかったんです。自炊をするとか、好きなお皿を使うとか。そういう暮らしも含めて、自分で決めたかった。花は好きですけど、私の人生をつくる大切なものの一つであって、それだけが人生のすべてではないと思ったんです」
好きなことを仕事にするだけでは、自分が望む人生になるとは限らない。何の仕事をするかだけではなく、その先にどのような暮らしがあるのか。長谷川さんは、仕事を人生をつくる一つの要素として捉えていた。
花屋で働いていた頃、本が好きだった長谷川さんは、小説家が営むバーへ通うようになり、やがて働かせてもらうことになった。高校を卒業したばかりの長谷川さんにとって、年上の大人や、異なる仕事や生き方を持つ人たちとの出会いは新鮮だった。
仕事や人生について、自分が知らなかった考え方に触れる。その時間に強く惹かれていった。
花屋を辞めた後、日中の仕事として選んだのはコールセンターだった。
「バーに行ったり、本を読んだりするためのお金を稼げれば、日中の仕事は一旦それでいいと思ったんです」
世間的に良く見える仕事ではなく、自分が今、何を得たいのかを基準に選んでいた。しかし、感染症の流行によってバーへ行けなくなると、大切にしていた出会いと刺激が消え、忙しいコールセンターの仕事だけが残った。
このまま20歳を迎えるのは、高校時代に思い描いていた姿とは違う。コールセンターを辞めたい。けれど、何も持たずに辞めれば、別のアルバイトへ移るだけになってしまう。
その頃、在宅で働ける仕事として、プログラミングが注目され始めていた。店舗を持ち、仕入れや人件費を抱える両親を見てきた長谷川さんにとって、パソコン一台で自分のスキルを販売できる働き方は魅力的だった。
接客やバーでの経験から、営業やコミュニケーションにも自信があった。技術を身につけ、自分自身を商品として売ることができれば、仕事にできるはずだ。
長谷川さんは、高額な受講料を払い、半年間のプログラミングスクールへ入った。
「これでコールセンターを辞めて、二度と戻ってこないぞと思いました」
スクールでは、技術だけでなく、仕事の進め方も身につけようと決めていた。何を実現したいのか、自分で何を試し、どこで止まっているのかを整理し、相手が一度の返信で答えられる状態まで質問を組み立てる。
「先生を仕事相手だと思って、質問の仕方も社会人としての練習のつもりでやっていました」
その姿勢が講師の目に留まり、受講開始から数か月で、別の講座のアシスタントに誘われた。
「生徒の一歩先にいれば大丈夫」
そう背中を押され、エラーで困っている生徒を助ける役割を任された。やがて、就職を目指す学生向け講座のカリキュラム設計と講師まで引き受けるようになる。
同年代の学生が就職活動をする時期に、長谷川さんは教える側に立っていた。講師の仕事を得たことでコールセンターを辞め、フリーランスとして働き始めた。
講座を通じて出会ったエンジニアから開発案件を紹介され、実務の機会も増えていった。一つの仕事に誠実に向き合う。それが信頼を生み、新しい仕事につながっていく。
20歳頃にはフリーランスとして働き始め、やがて幼い頃から憧れていた一人暮らしも実現した。高校時代に思い描いた「早く社会へ出て、自分のスキルで仕事をつくる」という選択が、現実になった。
会社か独立かの二択を超える——inc.との共鳴から、二つの船を育てる未来へ
フリーランスとして経験を重ねた後、長谷川さんは、一度会社員になる道を選んだ。会社だからこそ経験できる仕事に関わり、さらにスキルを高めたいと考えたからだった。
一方で、働き続けるうちに、再び独立したいという思いも強くなった。会社に所属すれば、辞めるか、残り続けるかの二択になりやすい。だが長谷川さんは、独立しても、信頼できる人たちとの関係を続けたかった。
将来独立した後も続けられる仕事を探す中で出会ったのが、inc.合同会社だった。面接で心を動かされたのは、自立した個人が価値観と専門性によってつながる、ギルド型法人という仕組みだった。
会社に囲い込まれず、独立しても関係を終わらせる必要がない。
「受かるかなという気持ちよりも、ギルド型法人という仕組みに惹かれました。面接というより、飲み屋で共感できる人と知り合えたような感覚でした。レゾナンスが起きた感じです」
自分の人生を自分で決めたい。だからといって、一人だけで働きたいわけではない。それぞれが自立したまま、価値観の合う人と関係を続けられるinc.のあり方は、長谷川さんが抱えていた葛藤への答えだった。
一つのクライアント案件から関わりが始まり、営業のサポートや、案件に合うエンジニアの提案へと役割が広がった。会社員を離れ、再び独立した後もinc.との関係は続き、より深くチームに関わるようになった。
現在は、友人と会社を経営している。生活を大切にしながらクリエイティブな仕事をしたい若い人や学生が働ける仕組みをつくろうとしている。
自分の軸を否定されず、選択を任されてきたからこそ、今度は若い人たちにも、自分に合う道を選べる環境を渡したいと考えている。その姿勢は、inc.でのクライアント支援にも表れている。
クライアント企業のWebディレクターに向けたプログラミング講座では、エンジニアに任せるしかなかった人たちが、自分で一歩踏み出せるよう、コードの基本を伝えた。
「画像の差し替えなら、自分でもできるかもしれない」
「色を変えるくらいなら、もう怖くない」
翌日には、「昨日教えてもらったことを使って、ここまでやってみました」と質問が届いた。
「その人たちが活躍してくれたのが、すごく嬉しかったです」
知識を渡せば、簡単な修正作業の依頼は減るかもしれない。それでも、長谷川さんは技術を囲い込まない。
「相手の知見を増やして、一緒にもっと大きなことができるようになる方が、本質的な仕事だと思っています」
相手を依存させて仕事を守るのではなく、自分で進める力を増やし、互いの仕事を大きくする。そこには、自分の人生を自分で決めることを大切にしてきた長谷川さんらしい支援の形がある。
Web開発は、エンジニアだけでは完結しない。企画やマーケティング、デザインがあるからこそ、開発したものが力を発揮する。
inc.では、異なる専門性を持つ人たちと、何を実現するためにつくるのか、その後どのような成果が生まれたのかまで共有できる。同じ目的へ向かうチームとして関われることに、長谷川さんはやりがいを感じている。
長谷川さんにとって、自身の会社は「自分の船」であり、inc.は仲間と進む、もう一つの船である。船が大きくなれば、一人では行けなかった場所へ行ける。
「せっかく、こんなに志の強いメンバーが集まっているなら、自分たちで本気で良いと思えるものをつくりたいです」
幼い頃、長谷川さんが求めていたのは、自分で暮らしをつくれる小さな城だった。今、育てようとしているのは、それぞれが自分の人生を持ったまま、必要な時につながり、一人では行けない場所まで進める船である。
自分で決めることは、一人だけで生きることではない。自分の意思を持つ人同士が、互いの軸を否定せず、専門性を持ち寄り、より大きな仕事へ向かうこと。
長谷川さんは、両親から受け取った「自分で決めていい」という自由を、今度は技術や機会、働く環境として、周囲の人へ渡そうとしている。
自分で選び、その結果を引き受ける。そして、誰かが自分の意思で進めるように支える。
あなたは今、自分の人生の舵を、自分で握れているだろうか。この物語は、私たちにそう問いかける。